「Enjoy your dinner!」
宿のご主人がそう言って送り出してくれたのは午後7時少し前。
日はすでにとっぷりと暮れて、
風も一段と冷たく感じる 10月最後の夜でした。
「左手にある、パブ‘Grove Arms だよ’」
ご主人の言葉を思いだし、
しっかりと目をこらしながら、丘の連なる田舎道を走ります。
時折すれ違う車はものすごいスピードで
あっという間に視界から遠ざかってゆき、
The Rest is Silence.
本当にまだ7時なのだろうか、と思うほどの
不思議なしづけさに身をゆだねて数分、
前方にそれらしい灯りが見えてきました。
小さい溜息がひとつ。
静まりかえった夕刻の田園で
まるで自分達だけが取り残されてしまったかのような気持ちになっていたので
あたたかで、香ばしい食事の匂いのする室内に
ほっと安堵の溜息がこぼれたのでした。
既に食事をはじめている人達の話し声やお皿の触れあう音が
ほどよいボリュームで心地よい。
気持ちがどんどんほぐれてゆくのが分かります。
私達はスープとパイ料理をオーダーして
思いきりその心地よさに身をゆだねながら
1パイントのギネスを分け合って飲みました。
壁の黒板には
‘クリスマス近し!クリスマスディナーの予約をお忘れなく’と踊る文字。
それにしても・・
日暮れ前にこの街に着いてからのことを思います。
ウィルト州の田園風景に、これまで旅してきた土地とはどこか異なる
不思議なしづけさを感じていたのでした。
ストーンヘンジやホワイトホースなどがあるのもこの辺り。
しづけさは そんなミステリアスさともどこかで関係しているのかもしれません。
そもそもシャフツベリーなぞに来たいと思ったのは
ある坂道が見たかったからなのです。
前日訪れた港町ライにしろ、10年前の記憶さえ鮮明なリンカーンにしても
少しばかり滞在したバースにしても
私は坂道のある風景が、
雰囲気のある坂道を持つ街がとても好き。
緑の野を背景に 素朴な民家が坂道に軒を連ねる、
いかにも牧歌的なシャフツベリーは
ですから、以前から是非一度訪れてみたかった街でした。
念願かなってこの街の坂を下り、坂を上り、
途中で何度も振り返り
まさしく坂道を堪能し、
宿に着いたのは 日が落ちてしまう直前のこと。
今夜のB.Bは藁葺き屋根の可愛らしいコテージで
英国では決して珍しいことではありませんが、
歩くと床がみしみし音をたてる、17世紀の建物です。
この地に入って感じた独特のしづけさが
一層、深まったわけは この古いコテージにあるのか、
はたまた 宿の老夫婦の持つ雰囲気にあるのか、
ラウンジでお茶をいただきながら
明らかに自分を包む空気が
これまでとは違うことをいよいよ実感したのでした。
さあ、いよいよ食事が運ばれてきました。
彼はギネスパイ、私はウサギのパイ。
それぞれのシチューの上に、
厚さ4.5センチもあろうかというパイの島がこんもり乗っていて
それをくずしながらシチューと一緒にいただくのです。
田舎道のパブとはいえ、お皿までしっかり温めてあり
これは期待できそう、と口に運ぶと・・・
The Rest is Silence.
ああ、あるべき所にはあるのですね。
言葉で表そうとすればするほど陳腐になってしまう豊かな美味しさ。
そういえば以前 他の小さな街でも地元の人の勧めるパブで食事をして
その美味しさに驚いたことがありました。
決してメディアでは紹介されないような場所で
あなた達ときたら秘かにこんなに美味しいものを食べていたのね。
他の人達に知られたくないものだから
英国料理はまずいだなんて言って油断させ
こっそり自分達だけで楽しんでいるのではないかしら。
そんなことを考えながら
ゆっくりゆっくり食事をしました。
私達の旅も中盤。
旅には面倒なことも多く
予期せぬハプニングやトラブルもつきものです。
それでもこういう時間が持てると すべてが帳消しになる気がするので
不思議なものです。
思いがけぬ嵐で道路が閉鎖され 宿も見つからずに右往左往。
疲れ果ててようやく辿り着いた町のレストランで
言葉少なにタイ料理を食べるしかなかった昨夜のことさえ
満ち足りた今となってはもうすっかり思い出。
宿のご主人の言葉が思い出されます。
Enjoy your dinner!
それは確かに、決まり文句ではあるのですが
その夜、私達は味も雰囲気も全て含めて
本当にゆったりと心ゆくまで 食事の時間を‘楽しんだ’のでした。
暗い闇を抜けて コテージへ戻ると
ドアを開けてくれたご主人の後ろ、
ラウンジの方からはほのかな灯りがもれていました。
蛍光灯をほとんど使わない英国独特のオレンジの室内灯です。
「ラウンジでお茶でも?」
嬉しいお誘いだったのですが、
疲れと満腹感で 私達は立っているのもやっと、という有様。
早々と失礼して、部屋に戻りました。
ベッドに横たわると、屋根の形そのままにカーブを描く漆喰の白壁に
黒々と張り巡らされた梁が すぐ目の前に迫ります。
現実と夢の世界とを行き来しつつ
瞼に蘇ってくるのは パブの駐車場で出会った妖しげな子供たち。
不思議な帽子をかぶっていたなあ。
服もへんてこだったぞ。
あれは夢かしら。
いや、違う!
そういえば今日はハロウィーンだったんだ。
そうか、魔女の帽子だったのね・・・・・
まどろみの中で そんなことを考えながら
しづかなシャフツベリーの夜は更けてゆくのでした。
The Rest is Silence.