「なんて‘イギリスのような’小説なのだろう」
本を閉じるとき、そんな風に思いました。
イギリスのような、というより イギリスの自然のような、と言う方が正しいでしょうか。
決して起伏に富んだものではなく どこまでも穏やかなのですが
それゆえ心に深く刻まれる風景。
舞台は、今世紀初頭のイギリス、
ダーリントンホールという大邸宅に勤める
執事が主人公の物語です。
かつては‘世界の中心’とも言えた屋敷で
勤勉に誇り高く、任務をこなしていたスティーブンスでしたが
大客をもてなしていた華やかりし時代を見送り、
屋敷もアメリカ人に買い取られてしまった今、
かつての同僚で女中頭であったミス・ケントンに会いにゆく旅にでます。
旅の途中で心地よい旅籠に宿をとった彼は
その日見た田園の風景を思いだします。
‘この静かな部屋で私の心によみがえってくるのは
あのすばらしい光景、うねりながらどこまでも続くイギリスの田園風景のことです。
もちろん、見た目にもっと華やかな景観を誇る国々があることは
私も認めるにやぶさかではありません。
私自身、壮大な渓谷や大湿布、峨々たる山脈など
地球の隅々から送られてきた、息を飲むような写真を見たことがあります。
そうした景観に直接触れたこともないのに、
こんなことを申し上げるのはおこがましいかもしれませんが
私はあえて、多少の自信をもって申し上げたいと存じます。
イギリスの風景がその最良の装いで立ち現れてくるとき、
そこには外国の風景がーたとえ表面的にどれほどドラマティックであろうともー
決してもちえない品格がある。
そしてその品格が、見る者に非常に深い満足感を与えるのだ、と。’
常々彼は執事という仕事に一番大切なことは「品格」だと考えいるのですが
その品格こそがイギリスの一見平凡な田園風景にあるというのです。
‘この品格はおそらく「偉大さ」という言葉で表現するのが
もっとも適切でしょう。
今朝、あの丘に立ち、眼下にあの大地を見たとき
私ははっきりと偉大さの中にいることを感じました。
じつにまれながら、まがいようのない感覚でした。
では「偉大さ」とは厳密に何を指すのでしょうか?
この質問に答えるには、私などよりずっと賢い頭が必要であるのは承知しております。
しかし、あえて当て推量をお許しいただくなら、
私は表面的なドラマやアクションのなさが
わが国の美しさを一味も二味も違うものにしているのだと思います。
問題は、美しさの持つ落ち着きであり、慎ましさではありますまいか。
イギリスの国土は、自分の美しさと偉大さをよく知っていて、
大声で叫ぶ必要を認めません。’
デボンの田園を目にして、スティーブンスが感じるこのことは
またこの小説そのものにそのまま当てはまると言えるでしょう。
そういう意味でこれは‘イギリスの自然のような’小説なのです。
慎ましやかであるがゆえ
その偉大さが
じんわりと、しかし圧倒的に読者を包みこむ。
本を読み終えたときの静かな感動は、
そう まさしくイギリスの田園を前にしたときの、
あの感動。
大げさで直接的なものは何もないのに、
まるで打ち寄せる波のように
ゆっくりと、でも止むことなく、
見るものの心に訴えかける魅力をたたえている。
また、この作品において特筆すべきは極めてイギリス的と言える要素が
あちこちに散りばめられていること。
カントリーハウス、田園、アマチュアリズム、
まずなにより執事という職業自体がひどくイギリス的なものです。
作者のカズオ イシグロ氏は日系のイギリス人。
5歳の時に渡英して以来 イギリス社会で生きてこられた方なので
あたりまえといえばそうなのかもしれませんが
その国民の血でしか分かり得ないような
イギリスの奥深さを見事に描ききっているその様は、驚くばかりです。
そして日本語訳の素晴らしさもまた、格別。
原文の魅力をあますところなく、いやそれ以上にも引き出し
美しい日本語で紡がれた土屋雅雄氏の訳には
翻訳ということの奥深さと難しさを改めて教えられた気がします。
言葉だけでなく、その奥にある文化の広がりや、
微妙なニュアンスを知り尽くしてこその名訳。
また、文体のやわらかさや、絶妙な言葉の選び方が
原作の持つ空気感を そのまま伝えていて
本当に味わい深いものになっているのです。
そして、この作品はまた
ストイックなまでにに執事という人間を演じきった
一人の男の、切ないラブストーリーでもあるのです。
最後の最後までストイックであり続けることで
一層、この恋の誠実さと切なさが心に響く、
静かな大人のラブストーリーです。
*「日の名残り」 カズオ イシグロ
土屋雅雄 訳 (中央公論社)