きっかけは父が送ってくれた一冊の本でした。
大学生になった春
一人暮らしを始めたばかりの娘にと あれやこれや両親が詰めてくれたダンボール箱の
それは一番底に詰めてありました。
深い緑色をした中公新書の「マザーグースの唄」。
’聖書とシェイクスピアとマザーグースは英文学を学ぶ者には必須’
そんなことを私が知ったのは 随分後になってからでしたが、
ともあれ英文の道を選んだ娘への それは父なりの贈り物だったのでしょう。
マザーグースの、おかしさ、怪しさ、愛らしさ、残酷さに夢中になった私は
その後、図書館や本屋でマザーグースに関する本をかたっぱしから見てゆくことになるのですが
その時、出会ったのがKate Greenawayの絵だったのです。
Kate Greenawayは英国19世紀後半の挿し絵画家です。
絵本の黄金期だったこの時期には
Kateの他にも 多くのすぐれた画家達が登場し、
産業革命の影によって失われたもの、
すなわち人間としての尊い暮らしや英国の風景を描くことに執心していました。
そんな中、古くからイギリスで親しまれている伝承童謡、マザーグースにも
多くの画家が挿し絵を描いたというわけです。
マザーグースの詩そのものの面白さと同じくらい
それらの絵はそれぞれが個性的で楽しかったのですが
その中でも 圧倒的に私の心を惹きつけたのが
Kate の絵でした。
彼女の描く少女や英国の風景は
ただかわいらしいだけでなく、どこか憂いを秘めてノスタルジック。
細い線、シックな色合い、
そして笑わない少女。
彼女の絵を見ていると私は懐かしさにも似た想いで
胸がいっぱいになり
「生まれる場所を間違ってしまったのかもしれない」
などと思わず感傷的になってしまうほどです。
そして、思えば私がその後、一気に英国にひかれてゆく要素を
彼女の絵は全て持ち合わせていたのでした。
そう、ある意味では私の英国熱のきっかけともなったものが
彼女の絵だったのです。
さて、その夏。
はじめて訪れた英国で私は本物の彼女の本と出会うことになります。
それはほんの偶然でした。
ケンブリッジの町でたまたま通った裏通り、
そこにあった一軒の古本屋のショーウィンドウにそれは飾ってあったのでした。
今もこの国には Kateが生きている!
小さいながらも立派にウィンドウに飾ってあるその本を見て
私は嬉しくなりました。
今もここにはKateの世界がある!
そう感じたのは実は2度目でした。
はじめて降り立ったヒースロー空港から
バスでケンブリッジに向かった時の車窓の風景。
人々の服装こそKateの時代とは異なりましたが、
やさしい緑色をした丘陵地や
藁葺き屋根の家々、
水彩画のような空に煙突のある風景。
イギリスという国に対するさしたる下知識もなく
スピードの国ニッポンからやってきた私にとって
それは紛れもなくKateの世界であり、
昔の本の中のものだと思っていた風景が
目の前にあることは 本当に驚くべき事でした。
Kateの時代と変わらぬ風景を持ち続けるイギリスという国って・・・
長旅の疲れも忘れて
私は飽きることなく窓の外に見入っていました。
さて、ガラス越しにその本をしばらく見ていましたが
私は我慢できずに 店の中へ入りました。
身動きも窮屈なくらいの店内。
おぼつかない英語で頼み、店のおじさんが持ってきてくれたのは
手にすっぽりとおさまるくらいの本でした。
そしてそれこそがKateが絵をつけたオリジナルのマザーグースの本だったのです。
そっと表紙を開くと、この本の最初の所有者のサインでしょう、
Edith Birks Oct25.1881
と美しい字で書かれています。
100年も前に生まれた本。
「初版本なんだよ」
おじさんがそっと教えてくれました。
そして、Kateの絵は・・・。
名残惜しく店を後にした私は
バスに乗ってもまだ
しばらく言葉を失ったままでした。
気をつけないと壊れてしまいそうな、
色の褪せたその本の中で出会った彼女の絵は
やはり本物にしか持ち得ない
微妙な色彩の美しさにあふれていたのでした。
それは渡英してからこちら
あちこちの本屋で買い集めてきた現代版Kateの本とは
あまりにも遠いところにあるものだったのです。
白くツルツルとした新しいページの上でより
手垢と年月の流れに汚れた中でこそ、
彼女の絵は より魅力的に生きているのです。
セピアに変色したその小さな世界で
少女達はより居心地よさそうにたたずんでいるのです。
結局、私は数日後その本を買いました。
90ポンド(91年当時)という1ヶ月分のおこずかいを全てはたいて。
そしてその手垢にまみれた小さな絵本は
あれから10年、今も私の宝物です。
本の染み、綴じ紐さえもが
愛おしい大切な一冊なのです。