たまご、このごろ
「巴里日記」
「「
緑したたる公園の片隅で
林 芙美子の「巴里日記」を開く。
1931年、冬
シベリアを経て、巴里に着いた芙美子は
寒さと空腹の夜を明かし
小さなカフェーで、赤いゆで玉子と三日月パンとコーヒイの朝食をとる。
「赤いゆで玉子はえんぎがいい」と
雨の降る巴里を硝子戸越しに眺めながら。
翌日もまた、同じカフェーで
赤いゆで玉子と三日月パンとコーヒイを注文する。
店の親爺さんが顔を覚え声をかけてくれたことで
「何となく落ち着いて嬉しい気持ちなり」
長い旅路の果てに辿り着いた先で
「暗い部屋にトランクを置いたままぼんやりとつっ立っている」を経た後のそれが
どれほど心に染み入るものか、
身に覚えがある。
〜街路樹のマロニエの樹も黒い裸の幹だけで、
いかにも淋しい巴里の街なり。
時々、割栗石の広い街路を
馬車屋のような石炭屋が通ってゆく。
ノエルが近いせいか、あっちでもこっちでも辻々の花屋では
やどり木を売っている。
日本の夜店のように、道ばたに沢山商い店が出ていた。
小雨のなかを、傘もささないで
沢山の人達が買物に出ている。〜
目で文字を追いながら
一文字ごとに、今を離れていくのが分かる。
やがて、私はここにいない。
こんなにも美しい5月の緑に囲まれていながら
この上ない心地よさを享受していながら、と
申し訳ないような、罪悪感にも似た想いを抱きながら
すっかりノエル近い灰色の街角に、居る。
赤いゆで玉子と三日月パンとコーヒイと。
硝子戸の外は、雨に煙って。
「boiled egg & soldiers」
「はい、目玉焼き」とお皿を置くと
「これ、めだややきじゃなくて、たまごだよ」
まっすぐの瞳に見つめ返された。
さまざまに姿を変えるたまご。
boiled egg & soldiers(ゆでたまごと兵隊さん)と呼ばれる一皿は
スティック状に切ったバタートーストを
半熟の黄身に浸しながら食べるイギリスの軽食。
手軽で、美味しく、栄養しっかり。
めだややき君に振り回される朝も
バタートーストの兵隊さん達が
私を応援してくれる。
「ふんわり以前」
目の前のオムライスは
しっかりとした薄焼きたまごに包まれていた。
黄色い衣に、ところどころほどよい焦げ目。
少し焼きすぎたかも、と万蔵氏。
どれどれ・・・
食べた瞬間、懐かしさが口いっぱい広がった。
子供の頃、母が作ってくれるオムライスは
まさにこんなふうだった。
たまごにも、しっかり塩が効いている。
ふんわり、とろとろ。
それこそがオムライスのたまごの身上だと思い始めたのは
いつだったろうか。
作る時は、火を通しぎないように心を砕く。
たまごの味付けも少し甘め。
もちろん、それも美味しいのだけど。
ふわふわ、とろとろ以前、
ずっとこんなオムライスを食べていたんだった。
たまごは形も、味も自在なんだなあ!
あとはもう、スプーンが止まらない。
連休には実家へ。
毎年、この時期の庭には
たまご色のモッコウバラのアーチができる。
久しぶりに会う私達に、腕をふるってくれる母。
所狭しと並ぶごちそうの中に、
普段着のオムライスの出番はない。
薄焼きたまごに包まれた母のオムライス、
最後に食べたのは、いつのことだったろう。
「壁」
日曜の朝、
サンドウィッチをこしらえる。
泳いだ後はお腹が空くだろうと、
チキンを溶きたまごにくぐらせて焼いた
チキンピカタと野菜で
ボリュームのサンドウィッチ。
プールで25メートル。
今も昔も、それは小学生にとって
クリアしたい目標の一つだろう。
初めて25m泳げた時のことを、私も覚えている。
手も足も限界。
へたっぴな息継ぎの時に水も飲んでしまった。
もう、立ってしまいたい。
立ってしまおう。
そんな時に、視界の先にぼんやりとプールの壁が見えてきたこと。
少しずつ近づいてくるその壁が、
力を振り絞る勇気をくれたこと。
あとは、文字通りの無我夢中。
そしてゴール。
ふらふらと力の入らない足で壁に寄りかかり
遙かなる(と思われた)道のりを
振り返った時の達成感。
まだ25mを泳げない娘が
今年はどうしてもその目標をクリアしたいと言いだした。
5年生の学年目標が、まさに25m。
しかしスイミング教室も盛んな今、
実際には既に多くの子供達が25mを泳ぎきっているし、
夏休み前に行われる水泳の授業は、数えるほど。
学校での上達はあまり期待できそうもない。
それでは、と娘と父親
市民プールでの練習と相成った。
今日は、3回目。
長丁場になるかと思われたのに
思いがけず、1回目の練習で目標を達成できた娘。
少し心にゆとりも生まれたようで
自分の力を確かめるように、
一本、もう一本と
25mを泳いでいく。
その一本、一本が自信になっていきますように・・・
サンドウィッチの包みを抱えて見守る手には
まだ力が入る。
それでも、ゆらめく水の上、
懸命に伸ばした腕はひとかきするごとに
確実に壁に近づいていく。
そして、今や彼女の手は
必ず壁に辿り着く。
(2012.05.21)
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