この物語のための一瓶・・・!?
その名も「海辺ラベンダー」という蜂蜜は
甘さの奥に、かすかな塩味を残す。
それは「夏の終り」というタイトルが示唆する
この物語の余韻とも重なって。
「夏の終りに」(2)
マッジとポールは、
ゴールデングローブ荘での休暇を謳歌する。
何度も巡ってきた夏の休暇。
でも、なにもかもが「いつまでも同じ」というわけにはいかないことを
それぞれが心の奥で感じている。
自分たちも成長しているし
季節は常にうつろっていく。
古びたボートを塗るために
二人が青緑色のペンキを買いに行くシーンは
それでも、子どもらしい高揚感が
港町の賑やかな風情に、いきいきと弾んでいる。
「昼ごはんのあと、二人は丘を駆けおりて町へ行く。
ポケットの中でにぎりしめている夏休みの小づかいが、
熱くなり、金属のにおいを放って、
ペンキとチョコレートへの期待をかきたてる。
路地をいくつも通り抜け埠頭へでる。
カモメや観光客が、港に面して並ぶ窓から窓へそぞろ歩いている。
欄干にそって小船がずらりとひきあげあれ、乾かしてある。
小さい船は冬場は陸にあげておくのだ。
レティの店もここにあり、
錨をおろしている船をぴたぴたたたいたり、ゆさぶったり、
あやしたりする港の緑の水とむきあっている。
二人は立ちどまって店をのぞきこむ。
わらで結わえた茎ショウガの鉢の列や、
いく種類もの紅茶の価格をクリケットの得点みたいに書きだした黒板。
その奥には古ぼけて色のさめた緑色のブリキ缶が見える。
上の壁にかけたパネル画の中では
白い大型帆船が激浪にもまれながら帆走している。
「なににしましょうか、お嬢さん?」
店の中から声がする。
「お店の缶がすてきだなって思ってたのよ。」
と、マッジは答える。
「おばあさまだったら、中味のお茶がいいんですよっておっしゃるでしょうけど」
「いい商いを心がけてますから。」と声の主がいう。
「おたくのおばあさまは、オレンジペコウを召し上がります。
半ポンドでいいですか?」
雑貨屋の棚に並んだ缶入りのオレンジペコウを
マッジ同様、缶もすてきだ・・・と眺めていた昔、
「オレンジペコウ」は、オレンジの香りのする
特別なお茶なのだと思い込んでいた。
オレンジペコウ、その響きに惹かれても、
その缶が欲しいと思っても
中学生がおこづかいで買うには結構な値がついていたので
確かめるすべもなく。
そもそも、茶葉で煎れる紅茶はまだ遠い存在。
デザインの美しい缶に入った紅茶とも、
ゆえに、食品店ではなく、
洒落たインテリア雑貨の揃う店で出会ったのだった。
オレンジペコウがお茶の種類ではなく、茶葉の等級を表すもので
オレンジとは関係がないことを知るのは、もっと後のこと。
その頃には、イギリスを訪れ、その食文化にも興味が沸き、
このコーニッシュパスティとの出会いも果たしていた。
物語の舞台、コーンウォール地方生まれの
コーニッシュパスティ。
シンプルに塩と胡椒で味付けした肉と野菜を
ショートクラストペストリーというパイ生地で包んで焼いた
ボリュームたっぷりのパイだ。
もともとは、コーンウォール鉱山の鉱員が
手軽にしっかりと食事するための工夫の一品だったとか。
今では、他の地方でも人気のパイで
コンビニエンスストアのような場所でも手に入る。
オリジナルの他に、具に趣向を凝らされたものも多く
それもまた、それぞれに美味しい。
お小遣いを握りしめてマッジ達が駆け抜けた海岸通りにも
コーニッシュパスティの店があったに違いない。
(2012.7.30)
「夏の終りに」(3)
物語の後半、マッジは痛みを知る。
心が痛むなんて「言葉のあやにすぎないと思っていた」彼女が
苦しみの最中では、本当に心が痛いということを知るのだ。
圧しつぶされるような痛みを。
夏休みも、もう終わり。
ポールは自宅に戻っていき、
心身共に伏してしまうマッジはゴールデングローブ荘に残り療養する。
短い夏が終われば、英国の秋は駆け足だ。
あっという間に、冬の気配。
冷たい風が吹き始めたある日、
ポールがお見舞いにやってくる。
「二人はバラ園をぬけてくだって行く。
バラが数本、花を咲かせないまま凍りついたように、
わびしげに残っている。
裏木戸まででて、冷たい、しめっぽい天気にもかかわらず、
きつくてぴりっとする夏の香をほのかに放つユキノシタ科の灌木の生け垣をかすめて通る。
小道に張り出しているイバラの茂みをかきわけ、
手をつないでがらんとした砂浜へくだる。
海草や貝殻が散乱している。
海面には冬の鈍色、波音には冬の粗い響きがある。
ポールは浜におりたとたん走り出し、大声をあげ
石をひろって海に放る。
そして、マッジは、にっこりし、ポケットに両手をつっこんで
ポールのほうへ歩いていく。」
作者の ジル・ペイトン・ウォルシュは
「変化と喪失」という人間の宿命にインスピレーションを受けて
この物語を書いたという。
生きていくということは、
満たされていくことだろうか。
それとも、失っていくことなのか・・・
マッジとポールは、
真実を知り、現実を受け止める。
無垢な時代の終焉、夏の終り、ともいえる。
しかし、冬の浜辺の二人はメランコリーに沈むのではなく
むしろ、清々しくさえある。
いずれにせよ、私達は変わりながら、失いながら、
生きていくのだ。
生きていくというのは、そういうことなのだから。
「いまさら遅すぎるっていったね。なにがいいたかったのか、ぼくにはわからない。
マッジ、ほんとうにわからないんだよ。」
「幸せねえ、ポールは!」
マッジは広大な景色に背をむけると、ゆっくりのぼりだす。
はやくもしのびよるライラック色のたそがれに、ゴッドレビイの黄色い光が明滅する。
「レイフがいったわ。直すことができないものもあるし、
もとどおりにしようとしても手遅れだということもあるって。
そのときは、みじめでゆがんだ考えだって思っただけなの。
レイフがほんとうにいいたかったことが わからなかったのね。
でも、いまはわかるわ。」
*「夏の終りに」*
ジル・ペイトン・ウォルシュ 作
百々佑利子 訳(岩波書店)
(2012.8.16)
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