冬時間
今でこそ 日に何度も紅茶を飲みますが
まだ私が小さかった頃
紅茶はどこか特別でよそいきの飲み物だったように思います。
たとえば それはピアノの先生がときどき入れてくれたお茶。
ティーバッグでいれた、うすっぺらい透明な紅色をしていて
味もこれまた はかなげにうすっぺらい。
それにきれいな角砂糖をふたつ、みっつ、うんと甘くして飲むのだけれど
ルビー色したその水色と味に
どことなく大人びた世界を感じ取っていたものです。
今でもその 懐かしいお茶のある風景は
カップの中でしゅわしゅわ砂糖が溶けていく感じや
楽譜のぎっしり詰まったキャビネット、
自分の番を待つ緊張、
そんな記憶と相まって
ノスタルジックであまやか。
さて、今は自宅でも茶葉をポットで蒸らして紅茶を入れることも多くなりましたが
そうやって入れるお茶は 黒みがかったどっしりとした紅色をしていて
記憶の紅茶とは色も味も全く違います。
お砂糖ももう入れることはなく、たいていストレートか
ミルクティでいただきます。
なにかといえばお茶を飲むくせがあるので
普段はスーパーの特売品が御用達の私達も
お茶を買いに行くときばかりは ささやかな贅沢は楽しんでいて
茶葉がなくなると おきまりの店に足を運ぶようにしています。
好きな茶葉を 量り売りで好きなだけ買う!
古めかしくも、なんて贅沢な買い物なんだろう、
店に入れば、四方八方が紅茶の缶、
むせかえるようなお茶のかおり、
たくさんの中からひとつを選んでいくという行為にも
わくわくするのですが
結局買って帰るのはいつものものだったり。
お茶は、お茶を飲むという行為だけでなく
それをめぐるあれこれ、たとえば茶器やテーブルのしつらえや
なにより お茶の時間という、どこか幸せな響きの時間そのものが好きです。
そういえば 子供の頃は「三時のお茶に来て下さい」という絵本が大好きでした。
薄っぺらくて、横長で、ばらぐみさんだった頃出会った本。
もう何年も何年も もう一度読んでみたいと思っていて
思いきって子供の本の専門店をおとずれたのは昨年の夏のこと。
絶版でしょうね、という言葉の残念さと共に後にした
その本屋さんも 先日前を通ると、貸店舗になっていました。
こんな郊外の街にはめずらしい、ささやかでもポリシーのある
愛らしい店だったのに。
大切なものは、いつのまにか自分の目の前から姿を消している。
大切にしたいものほど はかない。
だから せめて紅茶の香りは逃がさぬよう、
今日もポットにしっかりきっちり蓋をして
おいしい時間を待つのです。
失われた時のかけらを ひとり、ひっそり懐かしみながら。