冬時間
バロックの夕べ
音楽に季節があるわけではないけれど
バロック音楽は私の中で
初夏の季語、といってもいいくらいだと思う。
今しがた、明るい日差しが降り注いでいたと思ったら
空が一瞬かき曇り、視界が翳る。
その変化に戸惑う暇もなく
また すぐに太陽が顔を出し、大地はあたためられる。
バロックを聴いていると
日なたと日陰が交互にやってくるような気持ちになるのだけれど
バロックの旋律特有のそういう自然なサイクルというか、流れのようなものが
ごくごく個人的な範疇でのことだけれど、
この季節の気分にぴったりと収まりがいいのだ。
「パパ見て! きみどりだよ、きみどり!」
街路樹の若い緑は 輝くばかりの瑞々しさ。
車の中にさえ降り注いでくるような緑のシャワーを受け、
娘は運転席に向かって何度もそう声を上げていた。
その二人を乗せた深緑の車が
今、まさに黄緑色のアーチを通り抜けて遠ざかってゆく。
ああ、黄緑だ、本当にきれいな黄緑だ。
5月のはじまりの日。
深呼吸と共にそれを見送りながら
私はひとり、会場となる美術館に入った。
素晴らしい演奏会だった。
たっぷりと2時間。
心の底からあたためられるような
素朴なリコーダーの音と、
それを支えつ、戯れつつ、の軽やかなチェンバロ。
チケットを買った時には
初夏のバロック音楽を楽しみたい、という思いと同時に
一人になりたい、とか
考えごとがしたい、など
邪な気持ちがないわけではなかったし
現に、そういう時間を過ごすのに
バロック音楽ほど気持ちよく寄り添ってくれるものはないとも感じていた。
それは まさに音の強弱を調節できないチェンバロのように
無駄に感情を波立てることなく
常に適温を保てる音楽だから
音楽以外のことを楽しめる時間でもあると思ったのだ。
けれども、いざ、演奏がはじまると
ただただ目の前のメロディーに包まれ、
日なたと日陰の繰り返しに身を任せるのみ。
余計なことが入り込むすきもないくらい
奏でられている旋律だけに集中している自分がいた。
バロック音楽というものが
もし目で見え、触ることのできるものだとしたら、
その形や重さや手触りを
そのままそっくり、手にした感じ。
付随しているものなど なにもなく
純正なそれだけを、少しの誤差もなく手にした感じ。
手の中でそれを慈しんでいるうちに
あっという間に、三曲のアンコールも終わっていた。
会場を出ると既に闇が降りていて
先ほど黄緑に葉を広げていた木立は
色は見えずとも、
清々しい匂いを 辺りに放っていた。
ヘンデルのソナタを思い出し
やはりバロックは黄緑の季節にこそしっくり収まる、という思いを強くする。
今夜 こんなにも純粋に音楽を楽しめたのもそのせいだろうか。
見上げた木々の間に月が見える。
満ち足りた夕べだった。
舞台の端にはイーゼルが2客、
バロック音楽を愛した画家 有元利夫氏の作品が
静かな佇まいでバロックの調べに耳を傾けていた。
絵画の見えてくる音楽を、
音楽の聞こえてくる絵画を、
‘音楽と絵画のはざま’を考えながら絵筆をとられたという
その色使いと響きは、
天上のもの、とでも言いたくなるような敬虔さが漂っている。
「有元利夫展-光と色・想い出を運ぶ人-」は
岡山県立美術館にて5月23日まで開催中。
(2004.5.1)