冬時間
チョコレートホットケーキ
「チョコレートホットケーキ」という詩を
読んだことがあります。
駅前にある喫茶店の、それは‘私’が大好きなメニューで
子供の頃からずっと食べてきたのだと。
結婚した‘私’が久しぶりに実家に帰り
駅まで送ってくれた父親が
以前と同じようにその喫茶店で
チョコレートホットケーキを食べさせてくれたのだと。
‘私’は 確か詩の終わりをこう締めくくっていました。
「ふと、結婚なんてしなければよかった、そう思った」
もちろん、それは‘私’の結婚生活が不幸だということではないのです。
駅で父親と別れ、電車に乗り、
今 現在の自分の家で‘私’を待ってくれている人の顔を見る頃には
喫茶店で感じたそんなセンチメンタルは、
おそらく薄らいでいるように、思います。
ただ。
ふと、そう思ってしまう瞬間、そんな感傷的な想いが存在することも
また確かなものだと、私は思うのです。
ずっと一緒にチョコレートホットケーキを食べてきた人と
どうして今、私は違う場所へ帰ってゆくのだろう・・・
あの頃のように、甘いケーキの余韻を楽しみながら
同じ家に帰ってゆくことが、どうして今はもうできないのだろう。
ただ、その単純なさみしさ。不条理さ。
*
短い帰省を終え、
荷物を車に積み込み、挨拶をして、
やがて車がふしの川沿いの土手を走り出すと
遠くに手を振る両親の姿が
少しずつ小さくなってゆきます。
そんな時、私はいつもあの詩を思い出すのです。
そして、わき起こる感情を直に受け止めるには切なすぎて
ただ、川沿いの景色を見ることに集中します。
両親のもとに帰ると
心からくつろぐことができるのは確かなことだけど
今の私が一番心地よくいられるのは、
紛れもなく、自分で築いた家族。
実際、出産で里帰りをしていた時には
数年前まで ここが自分の居場所だったことが不思議に思えるくらい
実家での生活は どこか落ち着かないものでした。
父と母には、彼らなりの生活ペースがあり
ちょっとした日常の習慣などの違いひとつひとつが
どこか私を居心地悪くさせるのでした。
私の部屋や使っていた物も、もうほとんど整理されていて
それもまた、なにかしら手持ちぶさたに感じましたし
両親は変わらず優しく接してくれたにもかかわらず、
いつも私の気持ちは、今の家族にあったのでした。
それでも、今、手を振る彼らの姿を見ながら
やはり私は感じずにはいられないのです。
どうして私は、見送られているのだろう・・・
たとえば、友達を送りに出たのは私。
こんな風の冷たい日だもの、
見送った後は、土手を駆け下り急いで家にかけこみ
「もっと静かに入りなさい」なんてたしなめられるだろう。
それでも、母はお茶を用意してくれたりして
私はきっとおしゃべりを始める。
すると母も家事の手を止め、向かいの椅子に座わるに違いない。
しばらくすると、妹が二階から下りてきて
一段とにぎやかに、女三人の夕方がはじまる。
そんな時間は 一体何処に行ってしまったんだろう・・・
どうして、私は見送られる側にいるんだろう・・・
突風が吹きつけて 川面が波立ちます。
車はいよいよ川沿いを離れ、
ふと気がつくと、
横で娘がじっとこちらを見ていました。
もうすぐ1才を迎える娘。
今回の帰省は一足早く、
彼女の誕生日を両親に祝ってもらうためのものでした。
実家に戻り、すっかり子供気分で甘えていた私だけど
娘にとっては、私が母親。
彼女にとっては
今、ハンドルを握るだんなさまと、
頼りなげに川を見ている私こそが
はじめての家族なのです。
私達がつくる家庭。
生まれ育ってきた家庭の「チョコレートホットケーキ」を抱えながら
今の私の家族から
どんなチョコレートホットケーキが生まれるだろうか。
そしていつかは娘もまた、自分自身の家族と・・・
そうやって 家族のホットケーキは積み重ねられてゆくのでしょう。
チョコレートホットケーキは
やっぱり、ちょっと切ない。
けれども、それは
私が私の道を歩んでいる証の切なさ。
だから車がぐんぐんとスピードをあげ、
川も町も遠ざかり、
いつしか 自分の暮らす町に戻ったなら
センチメンタルを振り切って
また、元気に笑って電話できるのです。
「今、着いたよ。いろいろありがとう。
また、帰るね!」
(2002.11.8)