冬時間
しんしんと底冷えのする真冬日。
灰色の空から今にも雪が降りてきそうな
昨年の12月30日に
帰省していた山口でサビエル教会を訪ねました。
赤いポインセチアの鉢が並ぶ祭壇の左右には
小さな電球だけで飾られた 二本のクリスマスツリー。
礼拝堂の中はまだ、つつましやかなクリスマス仕様です。
うっすらと、賛美歌も流れていて
白を基調とした空間は
その日の空気と同じだけ、静謐。
山口は日本で初めてキリスト教がもたらされた地ですが
おそらく、多くの山口市民にとって
サビエル教会は、そこが祈りの場所であるということ以上の存在、
何か、町の支えのような、町の象徴のような
そういう役割を担ってきたように思います。
小高い丘に建つその教会は、
16世紀にここで布教活動をしたフランシスコ・ザビエルの名にちなんだ
ザビエル公園にも隣接しており
子供の頃は 遠足やハイキングに、
大きくなると、ふと一人になりたくて
その丘を何度となく、上ってきたものです。
教会でありながら、
その範疇を越えて、皆に親しまれ
市民は皆、その大きな懐に包まれてきたのでしょう。
信仰を持たずとも、教会音楽が好きで
旅先でも、ふと教会を訪れてみたくなる私は
こういう土壌で育まれてきたのかな、と思います。
〜その日は夕方から激しい雨。
そして少し小雨になってきた午後9時頃
突然の炎が聖堂を包み、
天を焦がしました。
信仰の場だけでなく
西の京山口のシンボルとして
40年にわたり多くの人に
親しまれてきたサビエル記念聖堂は
一夜でその姿を消してしまいました。~
「山口サビエル記念聖堂」p38より写真、文章 抜粋
1991年、火事で焼け落ちた旧聖堂こそ
ずっと親しんできたものでした。
空に伸びる、美しい二つの塔。
息を飲むような天井画
靴を脱いで上がる畳の礼拝堂、
厳か、ということを肌で知ったのは、
この場所だったかもしれません。
今回、久しぶりにこの教会を訪れたのは
例えば、外国の本などに幾度となく出てくる‘きょうかい’というものを
娘に見せてあげたいと思ったからでした。
百聞は一見にしかず。
厳かな空気はしっかりと伝わったのでしょう。
一歩、礼拝堂に入るやいなや
彼女も又、神妙な面持ちで、
教会というものを受け止めているようでした。
火事の7年後、1998年、
現在の新聖堂が完成しました。
何かが大きく変わる時には、往々にしてそうであるように
このモダンな建築には
当時、多くの風あたりがあったと聞きます。
古くからの聖堂に親しんできた一人として
その気持ちも、もちろん理解できましたし、
実際、この日も記念館で在りし日の旧聖堂の写真を見た時、
こみあげてくる想いは
形容し難いほど複雑で 大きく、
自分の中での旧聖堂の大きさに あらためて気づかされたのでした。
けれども、又、同時に
少しずつこの新聖堂に、聖堂のある風景に
親しみを覚えるようになっている自分にも気が付きました。
白亜の外観。
堂内も一面に白く、清らかで
ステンドグラスが配されたその様、
それが床に落とす影の美しさなど
どこか、南フランスのマチスの礼拝堂を思わせる
明るさがあるようにも感じます。
教会を後にして 喫茶店でトーストを。
厚切りで、ふんわり。
バターのしみた黄金色のトーストは
冷えきった体にやさしく落ちてゆきました。
まったく、笑っちゃうほど古めかしい店なのに
こういう店ほどバタートーストが美味しいのはなぜだろう。
すっかり満足して
購入したばかりのパイプオルガンのCDを抱えて歩く山口の町に
カラン、カランと
教会の鐘の音が響き渡りました。
(2005.1.03)