冬時間
朝一番に、まずコーヒーをいれる。
体にはあまりよくなさそうだけど
空っぽの体に、濃い豆のジュースが
じんわり染みわたる感じがたまらない。
この春は「すみれ」という名前のブレンドを選んでみた。
‘さわやかだけど、しっかりとしたコクと甘み。
明るく、きれいな触感。
春という新しい時間のスタートを後押ししてくれるような明るい飲み口’
まったく、そんな紹介文の通り。
とりわけ、「きれいな」としか言いようのない
飲み終わりの気持ちよさよ。
春の野に咲く可憐な「すみれ」をイメージした
明るくきれいな飲み物が
朝一番、空っぽの体にじんわり染みわたるのは
なんだか、心によさそうだ。
バスケットは、私家版「季寄せ」の春の季語。
あれは、小学5年だったか、6年だったか、
まだ春待ちの寒い季節に
バスケットを探して歩き回ったことを覚えている。
頭の中にはしっかりと
理想のバスケットが描かれているのに
どんな店にも見当たらない。
それは寒風吹きすさぶ土曜の午後で
職場のマラソン大会に出る父を応援に行った帰りのこと。
ただひたすらにバスケットを求めて
母と商店街のめぼしい店という店を見て回ったのだった。
私にはぜひともバスケットが必要だと
切実に焦がれていた。
理想のバスケットには、その後まだ巡りあうことがないけれど
限りなくそれに近い子供用のバスケットは
絵本棚の上にある。
お菓子やハンカチを詰めて子供と出かけることもあるけれど
そこにあるだけで、なぜか安心する。
パチンと金具を開け、パチンと金具を閉める。
バスケットに詰めるのは
なにもお菓子やハンカチだけじゃない。
バスケットが必要なのは
なにもお出かけの時だけじゃない。
多分、そんなことを知っていたんだな。
あの頃の私も。
赤ちゃんとはおしゃべりができる。
ああ、ふわあ、えくう・・・
それは言葉なき、言葉ではあるけれど
小さく、ささやくように、
そう、まったく赤ちゃんがするのと同じ塩梅で
こちらもお話すると
いつ、どんな時でもちゃんと応えてくれる。
小さく、ささやくように語りかける。
「あれ、話せるの?」
とでも言いたそうな目で 相手はじっとこちらを見ている。
話を続けていると
嬉しそうに眉毛がぴくんと持ち上がる。
そして、「ママが話せるなら、僕も話してあげる。」
とでも言いたげな口ぶりで、熱心なおしゃべりがはじまる。
嬉しさが高まりすぎると、
手も足もばったばたと動き出す。
端から見ると、妙な光景かもしれない。
でも、交わしている本人達からすると
確かにそれは、おしゃべり以外の何者でもない。
言葉なき言葉の、親密なおしゃべり。
(2010.05.12)