冬時間
わたしだけの ちいさないえ
「わたしが ちいさな おんなの子だったころ、
わたしは、しょくたくのしたに すんでいました。
もちろん、いつもではありません。
ほんの、ときどきです。」
私が小さな女の子だった頃にも
私だけの小さないえを持っていました。
それは部屋の隅や 庭の一角といった特定の場所で
そこ身をかがめていると
不思議な安心感に満たされるのでした。
私だけの小さないえ。
*
ポロポロと涙が止まらない夜がある。
悲しいのではないし、つらいというのとも違う。
けれども、自分のために選んだ音楽をそっと部屋に満たすと
ただただ涙が溢れてくる。
こんな涙があるということを、私は最近はじめて知った。
解放されているのだ、と思う。
旋律によってもたらされる感情は
誰とも共有できない。
心にたつさざ波は、私だけのものだ。
旋律から見えてくる情景も、
思いだす風景も
私にしか知りえない。
‘わたしのいえに いる’
つまり そういうことだ。
わたしだけのいえは、例えばこうしてメロディーの中にも
ちゃんと存在している。
子供を産んで、
物理的ないえをほとんど失ってしまった。
ただひとり旅にでるとか、お茶にでるとか、
そういう機会がないばかりか
実際、一日のほとんどを誰かとぴったり過ごすのは
親子だとはいえ 息苦しくあることさえある。
人と人が一対一でずっと向き合っているのだから
それは きっとあたりまえのことだ。
思い返せば
後追いが始まった頃からこちら
お手洗いにさえ、一人で行けない。
それがやはり多大なストレスとなることは
子供を愛していて、
彼女との生活をおおむね楽しんでいるということとは
まったく別問題なのだと思う。
だから夜、束の間 ひとりの時間がやってくると
解き放たれるのだ。
それは自然に 涙がでてくるほどの解放感。
わたしだけのいえにいる安堵感。
`私にはここが必要`
そんな涙。
そして それがあるからこそ
翌朝は、また笑顔で家族と会えるのだろう。
*
「ひとは だれでも、
そのひとだけの ちいさないえを もつひつようがあります」
そんな書き出しではじまる絵本には
たくさんの家がでてきます。
木の上。
傘の下。
やぶのうしろの くぼみ。
いすのうしろの すみっこ。
大きな帽子や、おめんの下さえもが
いえになることが できるのです。
いえを持つのは、そして
子供たちばかりではないことも
この本にはきちんと書いてあります。
おとうさんがしんぶんのかげにいるとき、
おかあさんがうたたねしているとき、
それはドアもまどもしめて
彼らが彼らのいえに帰っているときなのです。
そういう時にはそっとしておいてあげないのは
「それは不公平です。そうですよね?」とも。
人は皆、いえを必要としているのでしょう。
目に見えるいえ、見えないいえ。
血を分けた親子や
血を分けずとも一番身近な恋人でさえ
互いに入ることのできない 自分だけのいえというものを。
そして、もうだめだ、と思う時でも
自分だけのちいさないえがあることで救われることが
人生にはたくさんあるのだと思います。
自分だけのいえを持てることは
なんて幸運なことでしょう。
自分に戻り、自分を休め、自分を確かめる
そんな あなただけの ちいさないえ。
あなたにもきっと あるでしょう?
引用文「あなただけの ちいさないえ」
ぶん ベアトリス・シェンク・レーニエ
童話館出版
(2003.3.17)
・追記・
明るい日差しが降り注ぐ春。
遠くの街では 現実の家さえ追われ、
また、心の中にいえを持つことすら奪われようとしている人達がいます。
やるせない思いで考えます、
いえを奪うことは誰にもできないはずなのに。
そして祈ります、
それぞれのいえに、早く皆が戻れますように、と。
(2003.3.22)