冬時間
ツリーの思い出・旅の思い出
心に残るクリスマスツリーがあります。
数年前 12月の東京で見た一本のツリー。
それは そんな洒落た演出が似合うわけでも、
また そのツリーに足を止める客などいそうにもない
ビジネスホテルのロビーに置かれた
場違いに見上げるほどのツリーでした。
その日、東京駅に新幹線が着いたのは 午後4時過ぎ。
私達はそれから2時間のうちに、その夜泊まる場所を探し
ホールまで行かねばなりませんでした。
体調が悪い私は 妹に頼るようにして
どうにか駅構内の宿泊案内所へ行き、
そこで紹介してもらったのが そのビジネスホテル。
ツリーはそこに立っていたのでした。
こういう言い方は少し気恥ずかしいのですが、
当時、紛れもなく、支え となっていた一枚のCDがありました。
東京でのリサイタルチケットは そのCDを買った中の何人かに
抽選であたったものだったのです。
私は山口に住んでいたので いくらチケットがあたったからといって
わざわざ東京まで聴きに行かないだろうと 家族の誰もが思っていましたし
もちろん、私自身 行けるわけないと思っていました。
当時の私はずいぶんと体調を悪くしていて、ほとんど家から出ることもない生活。
家にいても横になっていることが多いほどで、
少し無理をすると 必ずそのつけがまわってくるのはよく分かっていました。
そんな私がまさか東京にまで 行けるわけはない、と。
ところがコンサートの日が近づくにつれて、
どうしても行きたいという想いが募ってきました。
まさか あたるわけがないと思っていたチケットは
もがいている私への 神様からの贈り物かも、なんて
勝手に思いこんだりして、気持ちは盛り上がっていきます。
それでも決心がつかなかったのは 最後までやはり自分の体に対する不安。
長時間の新幹線や慣れない東京。
そんな所で倒れてしまったら?
・・・でも 行きたい。
家族を巻き込んで 当日の朝まで私は迷いに迷って
結局、この新幹線に乗らなければ間に合わないというぎりぎりのものに
乗り込んだのでした。
最後に背中を押してくれたのは、一緒に行くからと言ってくれた妹の一言。
小さな彼女がとても心強く見えたものです。
ところが 新幹線が動き出し、 見慣れた町並みが遠のくと
また不安がむくむくと湧いてきます。
無謀なことをしようとしているのではないだろうか?
私の単なるわがままなのだろうか?
本当に体は大丈夫なのだろうか?
途中 何度も引き返すことも考えましたが
京都を過ぎたあたりで やっと覚悟が決まりました。
そんな訳で、泊まる場所も決めぬまま
ただチケットだけを握りしめて 私と妹は夕暮れの東京駅に着いたのでした。
その雑踏に圧倒されながら、
自分たちの決断に圧倒されながら
しばらく流れの早さに足を止め。
リサイタルは紀尾井ホールにて。
まるで、星が降り注ぐようなピアノの音でした。
ピアニストはピアノという楽器を弾いているというよりも、
ピアノと向い合って 手を取り合っているように見えました。
いつも部屋の天井を見ながら聴くメロディーが
気持ちの良い空間に響き渡り、
それはまるで本当に天からの贈り物のような音楽。
12月の冷気の中、私達はリサイタルの余韻を体中で感じながら
無事ホテルに帰りました。
そして ツリー。
チェックインした時も 確かにその存在には気づいていましたが
目を留めるほどでもなかったツリー。
けれでも 今 こうして改めて見るそのツリーには
その子供じみたオーナメントや 昔風の電飾をも含め、
その夜を祝福してくれているような やさしさが感じられるのでした。
「来てよかった」
無邪気な灯りが フロントの大きなガラス窓に映っています。
にじむように、揺らめくように。
その時はじめて 張りつめていた緊張の糸がふっと切れて
私は少し泣きました。
あなたにとって思い出に残った旅は?
と尋ねられたなら 私は多分まず何よりも、その時のことを思うでしょう。
日が傾く頃に東京に着いた私達は
翌日、まだ人もまばらな早朝の東京を後にしたのです。
食事は ホテルに戻る途中に寄ったコンビニのおにぎりでしたし
おみやげひとつ買いませんでした。
せっかく行ったのに・・・・と思わなくもありません。
でも、たったひとつの目的のためだけに どこかへ行く。
日常を離れ、求めたものだけをしっかり抱えて帰ってくる。
その凝縮された数時間は まさしく私にとっての「旅」に違いありませんでした。
密度が高いだけに、手にしたものの輪郭がはっきりと見えるという充実感。
帰りの新幹線の中 朝日に美しい富士山が見えました。
妹とオレンジジュースを飲みました。
少しはしゃいで 写真も撮りました。
現像したフィルムの中には あのツリーを撮ったものもありました。
ささやかで、愛おしい旅の断片です。
今年もクリスマスのシーズンがやってきて
あちこちに趣向を凝らしたツリー。
でも私の中で今でも一番印象深いのは
冴えないホテルのロビーで見た あのツリーなのです。
家族の優しさや、ラフマニノフの調べ、自分の決意や感動、
そんなものが一緒になって輝いているようなツリーだったな・・・
台所の小さな窓を開けると
お隣の薬局から まるで鉄琴のように軽やかな音で
クリスマスの音楽が聞こえます。
いろんな人に支えられて
今年もこの季節を迎えられることが本当にしあわせ。
メリー クリスマス!