冬時間
「梅を見に行きませんか?」
川辺に揺れるススキや
愛くるしい目でこちらを見上げる柴犬など
彼の写真は ゆったりとした時間を感じさせるものだった。
「これ、うちの近くなんですよ」
いいね、と言った私に
彼は、丁寧に答えてくれた。
その時、私は院生。
彼はまだ学部の一回生だったので
‘センパイ’である私への緊張が伺える、
どことなく緊張した、しかし とても気持ちの良い対応が
新鮮で好ましかった。
すりきれたジーンズや、ジャケットばかりの部員の中、
緑色のブレザーが 少し、まぶしく見えたりもしたりもした。
学祭の写真展なんて
気まぐれなお客さんが時折 覗きにくるばかり。
当番の私達も 暇にまかせておしゃべりに興じることとなった。
そして時折、電話が鳴るようになった。
相変わらず 彼は丁寧で、
お互いの好きな音楽を録音し合うなど
カメラ部の他の誰とも共有できない話題に
私も夢中になった。
しばらくすると、ちょっとした誘いが続いた。
あくまでも さりげなく。
新しいテープを作ったから それを渡したい。
バイト先の近くに いいお店があるからお茶でも、なんていって。
部で集まった時には、
解散になって しばらくたってから追いかけてきて
駅へ向かう私の肩をたたいた。
それでも どうしてだろう。
私は 必ずや自分の駅で降りたので
彼も私の駅で降りて
構内にあるコーヒーショップでコーヒーを飲んで
そしてまた帰っていった。
彼が作ってくれたテープのラベルには
彼らしい本当に丁寧な文字で きっちり曲名が記されていた。
それまでの私が知らない素敵な音楽が沢山入っていた。
コーヒーを飲みながらする話しは
学祭の時と同じだけ 穏やかで楽しかった、と思う。
年が明け、阪神大震災があり、春休みになった。
震災の影響で新幹線が利用できない私は
JRを乗り継いで帰省する途中、
迂回先の奈良で ある写真展に立ち寄ることに決めた。
そんな折り、彼から電話があった。
ひとしきり 話をした後、
「梅を見に行きませんか?」
彼はそう言った。
いつも通りの落ち着いた丁重さで。
奈良にいい場所があるのだという。
それでも私は それを断り
彼も好みそうな写真展が奈良であることも
自分はそこに寄ることも 言わなかった。
息苦しかったのだ。
「梅を見に行く?」
そう気軽に聞かれていたら
もしかしたらイエス、と言っていたかもしれない。
「梅を見に行きませんか?」
ほんの一言だった。
けれどもそれは
彼の丁寧さが いつしか窮屈になっていることを知った
大きな一言だった。
4月が来て、真新しい芝生の上に
部員が集まった。
キャンパスはキラキラしていて
風は気持ちよく、空は青く晴れ渡って
汗ばむ陽気だった。
新入生歓迎についてのミーティングだったろうか。
ピクニック気分でそれを終え、
駅へ向かう私に
もう彼は肩をたたいてこなかった。
もし、いつも通りに笑いかけてきたならば
にこやかに、丁寧に 話しかけてきたならば
ちょっとばかり気の利いた言葉を考えていなかったといえば
それはウソになる。
けれども 彼は来なかった。
いつも彼が追いかけてくるあたりを過ぎ、
ひとり、改札を抜け、
電車のドアがあいても
私はひとりだった。
どことなく 気が抜けた感じだった。
都合のいい寂しさ、のようなものも
確かに胸にこみ上げてきた。
けれども 音をたててドアが閉まるのを聞きながら
その何倍も 私はほっとしていた。
(2004.3.19)