すももの次は、蜜柑。
引っ越しを終えました。
キッチンの窓辺に蜜柑の木があり
まだ青く、固そうな蜜柑がいくつも実っています。
前の住まいから、自転車で5分程度、
生活そのものに大きな変化はないというのに
土地を取りまく空気感がまるきり違う。
それが新鮮でもあり、
まだどこか心許なくもあり。
名残の蝉の声と、日々勢いを増す虫の音に
お隣の老夫妻宅の軒下から響いてくる
鉄の風鈴の高い音色が混じりあう中
新しい暮らしの始まりです。
*
日曜日、
朝から庭仕事に汗を流した万蔵氏が
お昼どき、蜜柑の果汁をビールに絞っている。
すべてが整った環境ではないから
ここでの暮しのテーマのひとつは「工夫」だ。
手間も時間もかかるけれど、
その過程もまた、愉し。
この夏は、皆そろって
ペンキを塗ったり、好みの壁紙に貼り替えたり
暮らしを整える準備に過ぎていった。
今も引き続き、庭のあれこれと格闘中。
若い蜜柑の瑞々しい香りが部屋に広がり
いいねえ・・・
目を細めている彼を見ていて
ふと、結婚する前の言葉を思い出した。
「目的地へ着くよりも、目的地に向けて旅することを大切にしたい」
結婚式前日、
デボンの小さな村から、ロンドンを目指すモーターウェイで
私はどれだけその言葉を分かっていたのだろう。
あれからもうすぐ16年。
ずいぶんと長い旅をしてきたように感じるけれど
まだまだ、旅の途中。
この旅路をこそ、
ゆっくりと楽しんでいこう。
(2014.9.06)
“フランスで過ごしたあの暑い八月、
私達はすももを食べすぎて何度も具合が悪くなった”
「すももの夏」は、そんな一節から始まる
ルーマー・ゴッデンの小説だ。
時は、第一次大戦の後、
母親と、4歳から15歳までの5人の子供達が
イギリスの小さな町から、フランスを訪れる。
ところが旅先で母親が病気になり
子供達だけがホテルに預けられることになってしまう。
それが、ホテル<レ・ゾイエ>(カーネーション)だ。
そこでの、めくるめく夏の日々!
後に、主人公セシル(ゴッテン自身)はこう言っている。
“今でも、ふと手を休めた時や、
ぼんやりしている時にはいつだって
私はあのホテルに戻っている。”
“私達はまだ、(家に)帰り着いていないのよ”とも。*
<レ・ゾイエ>のにおいがしてくる。
ひなたの土のにおいとひんやりした漆喰の壁のにおい、
太陽に暖められたジャスミンとツゲの葉のにおい、
草に宿る露のにおい。
ホテルと庭に立ちこめるムッシュー・アルマンの料理のにおいと、
ホテル自体から漂う、
濡れたシーツや家具磨きのにおい。
そして、決まって、かすかな下水のにおい。
それから音も聞こえてくる。
<レ・ゾイエ>だけに結びついている音が。
建物の壁に沿って並ぶ、ポプラの木のさやさやいう音。
厨房の蛇口から水が流れる音と、
それに混じって聞こえる甲高いフランス語。
犬のレックスが振る尻尾が床に当たってパシパシと響く音。
川に浮かんだ洗濯船から聞こえる、
板に洗濯物を叩きつけるパンパンという音。
上流に向かうはしけが蒸気を吹きあげるポンポンという音。
そしてモリセットの単調な歌声(彼女はいつも鼻歌を歌っていた)。
トワネットとニコルが、上の階の窓越しにどなり会う早口で大声のフランス語。
遠くから聞こえるかすかな町の喧噪と、
近くで魚がはねたり、
すももが木から落ちたりする音。*
異国のホテルに子供達だけ。
うんと背伸びして、
子供と大人の間を行ったり来たり。
人生って?愛って?
抗い難い魅力でセシルをいざなってくる
未知なる世界の扉。
でも、やっぱり彼女はまだ13歳。
ある夜、彼女は動揺と興奮で自分を見失いそうになってしまう。
そんな時にセシルが必要としたのは
紅茶とバタつきパンだった!
物語の鍵を握るイギリス人、
ホテルのオーナーの愛人であるエリオットが
それを持ってきてくれるという展開がまた、印象的。
物語の佳境ではないけれど、心に残るシーンのひとつだ。
あの時私が口にできたのは世界中でただふたつ、
イギリスふうの、なつかしいバタつきパンと紅茶だけだということが、
どうしてエリオットに分かったのだろう。
フランスでも紅茶が飲めるなんて知らなかった。
見たこともないような紅茶で、
コップに入っていて、
ひものついた小さな紙の袋に入った葉っぱを熱いお湯にひたしてあった。
紅茶は薄かったが、熱いのがなによりだった。
私は、紅茶に砂糖を入れて飲み、
バタつきパンを四枚食べた。*
驚くべきは、この物語が事実を基にした
ゴッデンの自伝的小説だということだ。
ほとんどの人にはおそらく一生起こりえないであろう
ドラマチックな夏の出来事!
ゴッデンだからこそ選ばれた、
としか言いようがない。
あの夏を閉じ込める才のある、選ばれし書き手。
それほど彼女の筆は、細やかで鮮やかだ。
物語の展開自体も、確かに面白い。
でも、それらを綴った一行、一行、すべてが
すでに完全なる物語のようにいきいきと輝いている。
臨場感があり、なお詩的な描写力。
白い紙に黒いインクで印刷された文字からは
鮮明な色や、芳しい香り、
そして、生々しい人間の感情が立ち上ってくる。
そして・・・確かに読み応えがある本編を経て
「第三版によせて」というゴッテンのあとがきには
とりわけ最後のくだりには、
ただただ、長い長いため息がもれてしまうのだ。
*引用部は全て本文より
「すももの夏」
ルーマー・ゴッデン 作
野口絵美 訳
徳間書店
(2014.8.17)
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