Blue Willow のある食卓 vol.22
どんなものと合わせても
いつも新鮮な驚きをくれるブルーウィロウ。
はっとさせられる瞬間を
暮らしの中から切りとって。
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食べもののなかにはね、 世界があるんだ。 一つ一つの食べもののなかに 一つ一つの生きられた国がある。 チョコレートのなかに国があるし、 パンにはパンの種類だけの国がある。 真っ赤なビートのスープのなかには 真っ赤に血を流した国がある。 味があって匂いがあって、物語がある。 それが世界なので、世界は 食べものでできていて、そこには 胃の腑をもった人びとが住んでるんだ。 テーブルのうえに世界があるんだ。 やたらと線のひかれた地図のなかにじゃない。 きみたちはきょう何を食べましたか? どこへどんな旅をしましたか? (「食べもののなかには」〜食卓一期一会より〜/ 長田 弘) ・ ・ ・ 本が好きで、食卓まわりのことが好き。 そんな私が大切にしている一冊の詩集。 「食卓一期一会」 しみじみと噛みしめたい言葉と味が詰まっていて 付箋だらけの一冊です。 Everyday with Blue Willowも この春で三年目を迎えることになりました。 ほんの気まぐれで始めたこのコーナーが 沢山の出会いと発見、 そして愉しみの場となったことに感謝しつつ 三周年の小さな特集を組んでみることにしました。 ‘大好きな詩集と、ウィロウあるテーブルと’ 「食卓一期一会」の、いくつかの詩と共に 私のWillow Lifeとを 数回に分けて 綴ってゆきます。 |
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日が暮れたら トマトの皮をむこう。 トマトは乱切りに、玉葱を薄切りに。 厚手鍋で、オリーヴ油を熱くする。 玉葱を炒めて切ったトマトをくわえる。 塩と胡椒とトマトピューレーをくわえる。 バジリコの葉っぱもくわえる。 弱火で煮込む。 トマトソースはミケランジェロより偉大だ。 それなしで長靴の国の歴史はなかった。 すぐれたものはありふれたものだ。 黙って、卵を一コずつ割り落とす。 ほんのすこしのあいだ煮込む。 ねえ、古いテーブルに 新しいテーブル掛けを掛けてくれないか。 「疲れた」ではじまる話はよそう。 ぼくらの一日にひつようなのは お喋りじゃない。 ミケランジェロの注意を忘れてはいけない、 語るなら、 声低く語ること。 (「卵のトマトソース煮のつくりかた」〜食卓一期一会より〜/ 長田 弘)
トマトソース、そして。それを作る時間が好きで 水煮缶のストックはきらさない。 シンプルな材料でシンプルな手順。 そして、料るということのシンプルな楽しさ。 ぐつぐつと煮えるソースを前に、 ふつふつと喜びがわき上がる。 買い物に出るのも億劫で ぐずぐずしているうちに日が暮れた。 キッチンの隅っに、じゃがいもと玉葱。 冷蔵庫には、卵。 ザッツ オール! 時計はもう、6時を回っている。 はて、はて・・・そうだ。 スパニッシュオムレツを作ることにした。 一度、油で揚げたじゃがいもを 卵と一緒に丸く焼く、というこのオムレツ。 難しくはないけれど ちょっとした手間はかかる。 スペインでは、ランチによく食べるのだそう。 確かにじゃがいもと卵がぎっしりだからボリュームはあるけれど ランチならいざしらず、 さすがに そのまま夕食に出すのは・・・ そこで、思いついたのがトマトソース。 以前作って冷凍しておいたものがあったはず。 早速解凍して、切り分けたオムレツにかけたら なんとか夕食の一品らしく形がついたぞ。 これに、お昼の残りのおみそ汁を添えて 本日の夕食のメニュー ザッツ オール! 品数の少なさは ボリュームで補い、 彩りの乏しさは トマトソースに助けられ。 ’すぐれたものは ありふれたもの’ トマトソースよ、ありがとう。 また、作っておかなくちゃ。 買い物リストには、水煮缶も追加! (2005.3.24) 小麦粉とベイキング・パウダーと塩。 よくふるったやつに、バターを切っていれて 指さきで静かによく揉みこむんだ。 それに牛乳を少しずつくわえて、 ナイフで切るようにして混ぜあわせる。 のし板に打ち粉をふって 耳たぶの柔らかさになるまでこねる。 めん棒で平たくして型をぬいて、 そして熱くしておいたオーヴンに入れる。 スコーンは自分の手でつくらなくちゃだめだ。 焼きあがったら、ひと呼吸おいて 指ではがすようにして横ふたつに割る。 割り口にバターとサワークリームをさっとぬる。 好みのジャムで食べる、どんな日にも お茶の時間に熱いスコーンがあればいい。 一日にいい時間をつくるんだ。 とても単純なことだ。 とても単純なことが、単純にはできない。 (「いい時間のつくりかた」〜食卓一期一会より〜/長田 弘)
イギリスについて多数の著作がある井形慶子さんの本を読みました。 これまでも、あちこちで目にしてはいましたが 「イギリス的・・・」「イギリス式・・・」というようなくくりや 「・・・・の方法」というハウツー本を思わせるタイトルが その他多くの、その類の書と同様に、 手に取ることを、ためらわせていたのです。 ところが、読み始めてみると それはタイトルから想像していたものとは異なり 大変 興味深いもの、 続けて何冊か、彼女の作品を読むことになったのでした。 住宅問題はじめ、どんな社会的なトピックを扱うにせよ、 一貫して彼女が追求しているのは その問題の奥にある ‘本当の豊かさ、幸せとは?’ということ。 そのテーマに尽きます。 文字にすると、とても抽象的、 どこか鼻白んでしまうような不確かさがあるかもしれません。 けれども、同時にそれは、誰もが心の中で いつも考え続けているテーマでもあるとも思うのです。 本当の豊かさ、幸せ、とは? それがイメージや理想論、また現実逃避的なものとしてではなく、 実際のイギリス社会での いくつもの事例と共に詳しく紐解いて語られた先には 私自身が求めることや 今の暮らしを見直すエッセンスも沢山あり とても有意義な読書となりました。 実は、井形さんの本を読んだのは初めてではないのです。 もう10年以上も前、 学生時代に出会った彼女の処女作「いつかイギリスに暮らす私」は とりわけ、あとがきの中の一節 ‘選択肢が星の数ほどあるにも関わらず、 私の思いはいつもイギリスへと向かっていった。(略) 私にとっての戻ってゆく場所というのは 間違いなくイギリスという国であり その中に私が感じてきた確かな暮らしがある’が 沢山の選択肢から、いつもイギリスを選び取る私自身に重なり 忘れられない一冊となっていました。 あれから 10年の時が経て、その間に 井形さんは、あとがきで書かれていた ’確かな暮らし’というものの正体を、 実際に見出し、考察され イギリスの中に感覚的に感じといっていらした‘豊かさや幸せ’の姿形を 着実につかんでこられたのだと思います。 そしてそれが今、一連の本となり 多くの人の心を動かしているのです。 移り変わってゆく金銭の価値や流行に振り回されるのではなく 自分自身が軸となり、地に足をつけた生き方をすることの大切さ。 それらのヒントを 「質素」「変わらない」と言われるイギリスに見出すのは 意義のあることだと 彼女の本を読みながら、今、私も強く思っています。 *** 日曜日。 春物でも見に行きたいなあ・・・なんて思っていたけれど スコーンを焼いて食べているうちに、 そんな気持ちはどこかへ行ってしまいました。 その日は一日、春の大掃除。 お部屋がすっきりしたら、気持ちもすっきり。 いい時間をつくるのに、 沢山のものは 要らないんだな・・・・ ‘ 一日にいい時間をつくるんだ。 とても単純なことだ。 とても単純なことが、単純にはできない。’ (2005.3.24) それは日曜の朝のなかにある。 それは雨の日と月曜日のなかにある。 火曜と水曜と木曜と、 そして金曜の夜と土曜の夜のなかにある。 それは街の人混みの沈黙のなかにある。 悲しみのような疲労のなかにある。 雲と石のあいだの風景のなかにある。 おおきな木のおおきな影のなかにある。 何かとしかいえないものがある。 黙って、一杯の熱いコーヒーを飲みほすんだ。 それからコーヒーをもう一杯。 それはきっと二杯目のコーヒーのなかにある。 (「何かとしかいえないもの」〜食卓一期一会より〜/長田 弘)
‘いつの季節も、とりわけ春は、 戸外の空気にあたるなら 朝明けが一番だ。’ 折に触れてページを繰る愛読書 スーザン・ヒルの「イギリス田園賛歌」 春の巻‘朝の歓び’という文章は、そんな一節で始まる。 なるほど 海の向こうも、 春はあけぼの、というわけだ。 しかし、あけぼのはともかく 日中はすっかり陽射しも強い 日本の春。 しかも、一気に夏日の気温。 「日本は四季があるというけれど、どうかしら・・」 急激な変化に カナダ出身の知人は、苦笑する。 彼女曰く、長い夏と長い冬の間に 申しわけ程度の秋と春のようなものがあるみたい、だとか。 その気持ち 分からないわけでもない。 実際、私だって つい先日 コートをしまったばかりなのに あれよという間に、汗ばむ陽気だもの。 昼間は 明るすぎて眩しすぎて 右往左往。 全てを白日の下にさらされているような 居心地の悪さのようなものも感じて なんとなく落ち着かない。 そんなわけで、 夕風が吹く時間になってはじめて この季節を心から謳歌できる気がする。 春はゆふぐれ。 苺をワンパックまるごと ミキサーにかけた。 すっかり その形がなくなるまで、 激しく一気に攪拌する。 ピューレ状になったら、 クリームとヨーグルトを加えて、冷蔵庫に。 一度 形を失った春の果実が ゆっくりと うすもも色に固まってゆく せめてその間は、私もクールダウン。 一杯目のコーヒをすする。 日が少しずつ傾いてゆく。 二杯目のコーヒーを飲みほす。 ゆるゆると ゆるゆると 春の風。 ムースはまだ固まらない。 何かとしかいえないもの、 それは午後遅くのムースの中にも きっと、ある。 (2005.4.16) 食卓は、ひとが一期一会を共にする場。 そういうおもいが、いつもずっと胸にある。 食卓につくことは、じぶんの人生の席につくことだ。 かんがえてみれば、 人生はつまるところ、 誰と食卓を共にするかということではないだろうか。 (〜食卓一期一会〜‘後記’より) 娘の通うプリスクールでは 午前中に一度 スナックタイムが設けてあり、 軽めのパンやクラッカーなどと共に、 果物や野菜が用意されている。 「今日は 何を食べたの?」 帰り道、そう尋ねるのが楽しみだ。 「今日はトマト!」 「キュウリも食べたよ!」 これまで娘は、火を通さない野菜を ほとんど食べようとしなかった。 煮物や汁の実としての野菜は食べているし、 年齢なりの好き嫌いは 誰にだってあるもの。 栄養的に心配があるわけでもないから 一時の好みに気を揉むあまり 無理強いでもして ’嫌い’だとか’美味しくない’という気持ちを植え付けてしまったら その方が もったいないなあ。 そんな風に思い、私自身ものんびりと構えていた。 今、無理に食べさせなくとも 楽しく味わえる日が来るのを待てばいいかな、と。 そんな娘が 今では、果汁で汚したスモックも誇らしげに トマトだの、キュウリだの、と声を弾ませている。 お友達と一緒、という環境は大きいだろう。 いつもの自宅の食卓で、という先入観がないこともあるだろう。 ともかく、家庭以外で初めて‘自分の席’というものを得た娘が そこで、初めて生野菜の味を受け入れたのだと思うと 少し、感慨深い。 人生に、 そのいろいろな所に、 自分のつくべき席があるというのは楽しいことなのだと あらためて 思う。 そして、その席を一緒に囲む‘誰か’の存在が いかに大きく、大切なのかということも。 春が来る少し前、 涙、涙で、集団生活に一歩足を踏み出した娘に 春爛漫の今、 家庭の他に、またひとつ 着くべき席ができたこと、 そして そこで確かに‘食卓一期一会’が生まれたことに感謝しつつ スモックを洗う今日この頃だ。 *** およそひと月、詩集「食卓一期一会」の文章と一緒に ウィロウ デイズを綴ってきました。 魅力的な文章が満載の詩集ゆえ、 どの作品にお供させてもらおうか、と 嬉しい悩みに頭を抱えるひと月となりましたが これで、ひとまず特集は終了することにします。 本当は、まだまだ取り上げたい作品も多いのですが それは、また次の機会に。 私のつたない紹介にもかかわらず 先日、ちょうどこの最後の文章を書いている途中 「実際に詩集を読んでみました」というお便りも届き、 三周年記念の 嬉しい締めくくりとなりました。 これからも、マイペースで ウィロウとの日常を残してゆけたらと思っています。 いつも読んでくださっている皆さん、どうもありがとう! これからも、どうぞよろしくお願いいたしますね。 こころの贅肉をそぎおとすべしだ。 詩という言葉の料理をとおして、 歯ごたえのある日々の悦びを食卓に送れたら、とねがう。 言葉と料理は、いつでも一緒だった。 料理は人間の言葉、 そして言葉は人間の食べものなのだ。 (〜食卓一期一会〜‘後記’より) (2005.4.27) |